Zakkaya Weekly No.155

Ryo Onishi 5/2/99  バックナンバー ホームページ

雑貨屋のひとり言 

  先週、長谷川投手が活躍しているアナハイム・エンジェルスのスタジアムに行って来ました。対戦相手はトロント・ブルージェイズ、初回からエンジェルスの一方的な試合で、ホームランがポンポン飛び出し、そのたびに花火が上がり、観客は大喜びでした。私は7年前までトロントにいたので、ちょっと複雑な気持ちで観ていました。7回表の時点で15対1の大差がついていたので長谷川投手の出番はないだろうと思い、スタジアムを後にしました。翌日のニュースで長谷川投手が9回1イニングだけ投げたと知り、ちょっと残念でした。(R.O.)

常識とは“誰にも共通する認識”とは限らない

「常識」 という言葉の意味を国語辞典で調べてみたら、次のように書いてありました。

 「常識:@、その時代に、一般人が共通に持っている知識または判断力・理解力。コモンセンス。A、わかりきった考え。ありふれた知識。【講談社、国語辞典、新版】

 この辞典は日本語で書かれた日本の国語辞典だからこれで良いのかも知れませんが、私達がこの解釈を持って国外へ出かけると大いに戸惑うことがあります。少なくともここアメリカ合衆国では日本における日本の“常識”は通用しないことがよくあります。

以前、まだ私が日系企業の現地駐在員であった頃、私達の会社にも“カジュアル・ウエアー・デイ(カジュアルな服装の日)”制度を導入することになりました。毎週 週末の金曜日を“カジュアル・ウエアー・デイ”とすることに決め、当時 事務部門統括責任者であった私の名前で全従業員に通知しました。

 そして、次の金曜日には私もネクタイを外し、無難な色とデザインのシャツを着込んだ“常識的”なカジュアル服での出社です。そしてアメリカ人従業員も思い思いの“常識的”なカジュアル服で出社してきました。

 ところが彼等の一部の服装を見て私は思わず唸りました。とても職場で仕事をする格好ではないのです。(と私には思われたのです)。

 早速、人事部長(アメリカ人)を呼び、意見を求めました。彼女(人事部長)の説明はこうでした。「確かに今日の従業員の中には職場での“カジュアル・ウエアー”としては少々逸脱している者が数人います。でも彼等はあの服装を“カジュアル・ウエアー”だと思っているのです。

 通知を出した責任者のあなたが“カジュアル・ウエアー”について きちんとした基準を一緒に出さないからいけないのです」。

  私に言わせれば、「ここは“神聖な”職場だぜ、そんなことわざわざ基準を示さなくったて常識で考えてくれよ」と言いたいところです。(なんで“職場は神聖”なの?と聞かれれば、それは私の常識だからと答えるしかありません)

そして結局 人事部長にカジュアル・ウエアーに関する“ガイドライン”を作ってもらい即、全社内へ流してもらいました。

  “ガイドライン”にはおおよそ次のように書いてありました。

*****************************************

(社内通知)カジュアル・ドレス について

金曜日の服装について、職場と言うより海岸のほうがふさわしい身なりの者を見かけるので、以下のガイドラインを定め、即実施する。・・( 略 ) 

*キュロットを除く短パンツは禁止。/ *タンクトップ衣は禁止。/ *切り裂いたり擦り切れたジーンズは禁止。/ *運動用衣、ビーチウエア(レオタード、紐付きサンダルなど)禁止。/ *不適切な図柄や文字の入ったTシャツは禁止。・・( 略 )

*****************************************

“ガイドライン”を出した翌週の金曜日には、おかしな服装の従業員は一人もいませんでした。

 日本では「そんな事は キミ常識でしょう」 と言えば済むことでもこちらでは、必ずしもそうはいかない事も多いようです。

 尤も最近では同じ日本人同志でも年代の差による“常識ギャップ”も結構あり、“常識”とは必ずしも、“一般人が共通に持っているもの”でも、“わかりきった知識”でもなくなっています。

“常識”とは決して“人類共通のモノサシ”ではなく、あくまでも“個人の基準”でしかない、と言ったほうが正しいのかも知れません。 そろそろ日本の国語辞典もその解釈を考え直さないと“常識”を疑われますゾ。

河合 将介 ( skawai@wakao.com  

さくらの独り言   「メタノイア」

宗教家や伝道者がよく使用する「悔い改め」や「回心」という言葉を、ギリシャ語では「メタノイア」という。もともとの意味は「方向転換」、その昔、神に背いて生きている者が神の方向へ向き直る時、この言葉を使った。「方向転換」を余儀なくされる私たちの人生、そしてそれを実践する勇気、それは古代ギリシャの時代から今もここにある。

「方向オンチ」の人の多くは、太陽が昇って沈む東西が認識できない。だから間違った方向へ向かっている場合、「方向転換」を命じられてもなかなか方向が判断できない。逆に「土地勘」に長けた人は、道に迷ってもまず東西を確認する。

この事は、自分が「来た方向と向かっている方向」の理解よりも「何かを中心にして自分の位置を認識できる」事にあると思う。これは計画通りには決して進まない人生においても云える事で、「方向転換」を余儀なくされた時、人生の軸にしているものに対しての自己位置確認が問われる。

お金か、地位か、名誉か、夫か妻か子供か、仕事か、友人か、その他等など。ある人は死を前にしても知ろうとせず、またある人は死を知らずとも悟り、この「方向転換」はまさしく確信できる自分の人生の中心がなければ正しく実行できないものである。

「ルビンの壺」は、同じ一つの図から2種類の絵を見取る事ができる事で有名だ。白い部分を中心に見るとカップに見え、黒い部分が背景になる。逆に黒い部分を中心に見ると、向かい合っている二人の顔の影が見え、白い部分は背景になってしまう。

これは方向転換ではないが、視点やその角度をちょっと変えることで、一瞬のうちに中心や背景だった物が全く違ったものになってしまうことを告げている。一面からのみ物事を見る事の不確かさと不自由さを示唆してくれる。「方向転換」とはちょっと違うが、これは方向転換できるかできないかという事にも関係してくるように思える。自分の中心があるかないかも含めて。

「メタノイア」をはじめとするギリシャ語を学んだ大学時代、あれからもう20年近くが経つ。あの頃学んだギリシャ語は、逆引き辞書(原形を覚えていなくても変化型から語彙を調べるもの)を使っても思い出せない。しかし最近は、人生の逆引き辞書を使いながら、この「メタノイア」の意味を深めている。

そして「方向転換」には、勇気が必要だと知らされる今日なのである。またその勇気は何よりも「愛」から生まれるものだということも。愛から出る勇気はどんなに困難な「方向転換」をも可能にすると思う。私たちの人生の中で、生活は変わらなくても生き方を変えねばならない時、それは向かい会う者への愛が力を発揮する。

時にそれは、両親や兄弟であり、友人であり、旦那や妻であり、仕事の同僚や部下や上司であり、または自分自身でもあろう。その愛が勇気となって「方向転換」を可能にしてくれると思う。人は愛のために生きる力も、向き直る力も与えられるからだ。だって、ほら、「方向転換-メタノイア」は「アイノタメ」ってね、、、さくら。

マキちゃんの健康のお話  「キレイな笑顔は健康の証拠」  

「笑顔がキレイな人がいいナー。」っというのは、世の男性の偽らざる真情ですね。

どんなにメイクが上手でコーディネイトが完璧でもヘアースタイルがキマッても笑った時に見える歯が汚かったらガッカリします。これはモチロン、女性から見た男性も一緒です。 っという事で、今回は『歯』のお話し。

若いうちはわからないけど、歳をとると共に『歯』の大切さを実感するようになる。ってことは、つまりダメになんないと、わかんない。

この大切な『歯』を丈夫に、美しく保つには、やっぱり、毎日の歯磨きが一番。

本当は、半年に一度は歯医者さんに通って、定期検診するのが理想的で、そうすれば虫歯の治療も比較的軽いし、安く済みます。(歯医者は痛いと思っている方、そこまで放っておくからですゾー。)

良く耳にするのが、「日本人は虫歯を治しに歯医者に行くが、アメリカ人は虫歯を防ぎに歯医者に行く。」らしいですねー。

『歯』の表面を爪でひっかくと付いてくるのが、皆さんご存知の、歯垢。

口の中にある細菌が食べカスなんかの汚れを餌にして繁殖し、『歯』の表面にベッタリとこびりつくのです。

つまり歯垢とは、生きた細菌の塊で、この細菌が虫歯を作ったり、歯槽膿漏や歯肉炎なんかの歯周病を起こし、さらには口臭のもとになったりするのですナーッ、これが。

しかもこの、にっくき歯垢、口をすすぐくらいでは落ちません。やはり歯磨きをマメにしなければダメ。

とはいえ、ただ磨いていれば良いかというと、それもダメ。 『歯』と歯茎の間や、『歯』と『歯』の間に、しっかり歯垢が残っちゃいます。

そこに唾液中のカルシウムが沈着してできるのが、歯石。 こうなったら今度は歯磨きなんかじゃ落ちません。

さらに悪い事は重なるもんで、歯石の表面がザラザラしているので、そこに歯垢がつきやすく、口の汚れはドンドン増すばかりで、しかもあなたっ、更に歯茎に刺激を与えるので、炎症を起こすのは時間の問題となるのです。...恐ろしいー。

つまり、口の中のトラブルの主な原因は歯垢、『歯』に付いた汚れなのです。

歯茎が赤く腫れたり、口臭があったり、朝起きた時に口の中がネバネバしたり、『歯』が浮くような感じがしたら、赤信号。昔流行った、「リンゴをかじると血が出る」人も要注意ですゾー。

歯並びも姿勢を正す為のひとつですから、小さな子供がいる方は今のうちに矯正しておくのも本人の為だと思いますヨー。

先日、日本の番組で「原因不明の腰痛や偏頭痛が続き、しまいには立って歩く事すら出来なくなった少女を診断した所、その原因が、なんと歯の噛み合わせの狂いからだった。」というのを見ました。

それだけ『歯』って、いろんな意味で大切なんですねぇ。

食事に使った食器は使うたびに必ず洗剤で洗うのだから、『歯』だって、そのたび磨いてあげなくちゃ。

1日3回、食後に最低3分、しっかり磨きましょうね。

最近、僕もお酒を飲んだ翌朝、歯が浮いた感じになり、ちょっと心配です。

じゃぁ、お酒を飲まなけりゃいいんじゃん。ってことになりますが、それが出来ないんですよねー、これが!  

一口コラム:「逆転発想もまた楽し」 (その20)

いはんや悪人をや

 このシリーズは、「逆転発想もまた楽し」 というタイトルを付けましたが、私が「逆転発想」 という言葉を聞いて、いつも最初に思い浮かべるのは、昔学校で習った 「善人なおもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」 という一句です。 

 この言葉は親鸞上人の弟子(唯円)が記した 「歎異抄・第三条」 の言葉として有名です。(確か、親鸞上人が法然上人の言葉として弟子たちに残したものだったと記憶していますが・・・・)

 日夜煩悩にさいなまれ、苦しみもだえる 『悪人』 は、この苦しみから逃れるため、仏にすがり救いを求めているのだ。 こんな罪人を救うために仏は修行をつんでこられたのだから、仏の力にすがってくる 『悪人』 こそ極楽往生するに最もふさわしい人間であろう。

 従って、『善人』 ですら死んだら極楽往生が出来るのなら、ましてや 仏に救いを求めてすがってくれば、『悪人』 が極楽往生が出来るのは当然のことなのだ―――。 といったような意味であろうと自分流に勝手に解釈しています。

 一見、それは逆ではないかと思わせた上で人々を説得するというテクニックは見事という他ありません。

 一般民衆に仏の道を説くと言うことは、こういうことなのかと感心させられたものでした。

 親鸞さん(いや法然さんかな)、大聖人だけのことはあって、さすがうまいことを言うもんですね。    

――― 羅府の庄助さん ―――

編集後記

歯のチェックアップに行くたびにちゃんと歯を磨かないといけないなあと思うのですが、つい、いい加減な磨き方になっています。気をつけなくっちゃ。

来週の156号はいよいよ3周年です。5月5日水曜日に読者のみなさんと語り合う予定です。 

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Zakkaya Weekly No.155

雑貨屋 店主 大西良衛 ronishi@earthlink.net