Zakkaya Weekly No.142

Ryo Onishi 1/31/99  バックナンバー ホームページ

雑貨屋のひとり言

 先週、サウスベイマネージメントセミナーの新年会があり、ワイフといっしょに出席させていただきました。とても和やかで楽しい時間を過ごせました。出席されているみなさんの明るさ、さわやかさ、優しさ、たのもしさが伝わってきて、その場にいるだけで勇気が沸いてくる、そんな集まりだと思いました。素晴らしいことですね。今の日本にかけているのはこんなことではないか思いました。

 1月もあっという間に過ぎ、2月になります。サウスベイも今は一応、冬ですから、寒い日もあります。朝方は寒いのでセーターを着てゴルフをしていても昼頃は半袖でないと暑い、これもサウスベイの特色でしょうか?最近、午後5時を過ぎても、まだ明るいので、なんだかうれしくなってきました。 (R.O.)

スーダラ節は 100遍の説教に勝る

“ スーダラ節 ” と言えば 1960年代初めにクレージーキャッツの植木等(うえきひとし)が歌い、日本中で大ヒットしたコミックソングです。 当時としては空前の30万枚を超える大ヒットとなり、1961年の紅白歌合戦でも歌われました。

中年以降の方ならご存知と思いますが、参考までに歌詞を以下記します。

 スーダラ節(作詞:青島幸男、作曲:萩原哲晶、1961年)

(1)♪♪ チョイト一杯の つもりで飲んで いつの間にやら ハシゴ酒 気がつきゃホームのベンチでゴロ寝これじゃ身体にいいわきゃないよ 分かちゃいるけどやめられねぇ ア ホレ スイスイ スーララッタ スラスラ スイスイスイ ・・

(2)♪♪ 狙った大穴 見事にはずれ 頭カッと来て 最終レース 気がつきゃ ボーナスは すっからかんのカラカラ 馬で金儲け した奴ア ないよ 分かちゃいるけどやめられない(以下同じ)

(3)、♪♪ ひとめ見た娘(こ)にたちまち惚れて よせばいいのに すぐ手を出して だましたつもりが チョイトだまされた 俺がそんなに もてる訳ないよ 分かちゃいるけど やめられねぇ (以下同じ)

この歌は一見( と言うよりどう見たって )ふざけた退廃的な歌に聞こえます。 私もずーとそう思ってきました。

  ある時、雑誌 「 プレジデント 」 仏教・親鸞特集号にこの植木等氏 自らが寄せた文があり、何気なく読んでみたら、そこにはこの 「 スーダラ節 」 と彼の父親とのエピソードが書かれていました。そしてこの 「 スーダラ節 」 には人間に対する深い思いが込められている事を知り、「なるほど、そういう側面もあるのか 」 と目の開く思いがし、以後 私は時々友人達と人生を語る時、この話を引用させてもらっています。

 今回はこの植木等氏の文の一部を抜粋、以下転載し、人間について考える材料を提供させて頂きます。

「・・・僕が芸能界に入って『スーダラ節』がヒットしたとき、親父は、あの歌の文句は真理をついている、親鸞の教えに通じるものがあるって言ってました。 『わかっちゃいるけど、やめられない。ここのところが人間の弱さを言い当てている』 ってね。

 くん酒山門に入るを許さずとか、肉食妻帯を許さずとか、世間がいろいろ言ってた時代に、親鸞は『わかっちゃいるけど、やめられない』と思いながら、自分の生き方を終生貫いたという訳です。 『うん、青島君は、なかなかの詞を作った』って、作詞した青島幸男さんを褒めていましたよ。・・・」

【植木等、無責任流大往生論 (プレジデント '95年2月号)より抜粋】

≪注≫植木等氏の父親は三重県の寺の住職でありながら、キリスト教の洗礼も受けていたり、労働運動、部落開放運動、反戦活動など当時としては危険な思想の持ち主だったようです。

 晩年は親鸞に対する敬慕の情を吐露しつつ昭和53年83才で没したそうです。植木氏の文によれば「確かに親父は、一見、支離滅裂ではあったけれど、その底には一貫したものが貫かれていました。弱く貧しい者、生身の人間に対する共感。人間平等、部落開放、戦争反対を主張して、官憲による投獄、拷問にもその節を曲げることがなかったんですから。・・」

  お経を唱え、説教を100回繰り返しても親鸞の心を真に伝え、理解させる事は困難なのに、この 「 スーダラ節 」 は人間の業(ごう)とか ありようを見事に言い切っている。 「 飲む、打つ、買う」 とは 人間の欲望であり、悲しい人間の性(さが)である事を認めた上で、それを 「 わかっちゃいるけど、やめられない 」 人間の弱さ、不完全さを素直に認め、その上で人としてどう生きるかを問うものだ、これこそ親鸞の教えの神髄だ、と言う事のようです。

  たかが無責任なコミックソングと思うなかれ、この歌は解釈の仕方によっては 100遍の説教よりも説得力のある人間修行の言葉でもあるのですね。

河合 将介 ( skawai@wakao.com

さくらの独り言 「アラレ先生奮闘記シリーズ(1)」

「 -1-  チャッチャ・クチャラ 」

 「『桜先生から『お話があります』と言われる度、『今度は何をしでかすのやら』と、ヒヤヒヤしました。今度は何ですか?」これは私が辞任希望の決意を伝えた時の、校長先生の言葉だった。この校長先生の教師生活の中で私という部下は、忘れたくても忘れられない”チャッチャクチャラ”の教師であったに違いない。

桜:「校長先生、許可の印を下さい。宜しくお願いします!」

校長:「フムフム、野外学習のための外出許可ですね。いいですね。補助者が必要なら申し出てください。うん、この提案書はなかなかいい。新任にしてはフォームも整っており、定義もしっかりしてる。もっともな提案だ。他の先生も桜先生の様に新鮮な提案をドシドシ出してくれることを期待しています。くれぐれも事故に気をつけて下さい。」

桜:「はい。有り難うございます。フォームや定義につきましてはベテランの教頭先生にご指導頂きました。」、ポーンと校長から捺印をもらう。『小学校第五学年で学習する淡水魚のめだかとその生活について学ぶことことができること』を学習目標とした野外観察のための、児童及び担任教師の外出許可をもらった時の会話である。この時から、この校長にとっての悪夢がはじまったらしい。

「今からメダカの観察をするために、川へでかけます。必要な物をいうから、耳をダンボにしてくだ〜い。ひと〜つ、どうしてるかな?という『?印』ふた〜つ、カメラ顔負けの”激写真機の目”、そしてタオル。教科書もノートも鉛筆も、何もいりませ〜ん。靴をはいたら、、、、。」それは野外観察のための外出時における桜先生の決まり文句だった。

私たちは近くの川へメダカ観察へでかけた。メダカがいる風景、水の深さ、広さ、質、流れ、群れの大きさ、雄雌の違い、水温、卵の有無とその場所、そして+α(雄雌の割合、逃げる速度、逃げ方ー泳ぎ方等など)、メダカの学校を静かに覗くことから始まり、最後はみんな川の中でびしょぬれになって、メダカを取り巻く世界(自然)を身体全体で学ぶものだった。子供はもちろん喜んだ。私もよろこんだ。そして父母も喜んだ。だれも風邪などひかなかったし、びしょぬれでこどもを帰宅させた私も問題にならなかった。しかし校長と主任は何故か喜べなかったらしい。

「ゴミ処理場の観察」もそうだった。同じようなシナリオででかけ、ゴミ焼却場ツワーを終えた私たちは、隣接している温泉(償却エネルギーを活用した銭湯)でひと浴び。男女浴槽の壁越しに「は〜い、一列になって、前の友達の背中をいかにゆっくり流せるか!よーいドン」をやったり、泡作り大会をやったりして、勿論私はドアを挟んであっちへこっちへ行っての、ご指導だった。「ゴミを種分けする事の大

切さも、その自分達の家庭でのささいな作業-区別が、どの様にゴミ処理作業に影響し、貴重なエネルギーとなり、また心地よい温泉にかわっていくか、、、」というものだった。どれもこれも、教科書には記載されていないことを学習するという点では、また主任や校長を悩ませた。事実私は、文部省指定教科書にそって作られた社会科既成単元テストのほとんどを使用しないまま、3学期を終えた。

『”枕投げ”のない修学旅行なんて、バーボンの入っていない氷の様なもの』、と思っている私。だから「はーい、今から枕投げ大会だよ〜ん」ときて、「だめだめ、そんなんじゃあ!」といっては、大会指導及び大会が始まる。その指導には『見回りの先生が来た時の”寝たフリ”の練習』も含まれており、事実見回りの先生が来た時は、私も子供もちゃあんと寝た(フリをした)。結局最後には見つかってしまい、大目玉を食らったけど。見つかった理由は”桜先生が行方不明”という指名手配の家宅操作故だった。

「めだかになるな!- メダカはいつも浅く綺麗な水に住み、そして決して一人では行動できない」、「燃えろ-燃えるものがいい-燃えるものがいい気分にさせてくれる、燃えないものは燃えるものと差別ではなくて区別する必要がある」そして「ロマンと戦いを共存して生きろ-現状把握と判断、目標設定、自己認識、迅速反応、テクニック、痛み、しかし楽しみ喜べ」、これはメダカの野外観察、燃物処理場、

そして枕投げでの私のメッセージだった。つまり授業とは「教科書を勉強するんじゃなく、教科書で勉強する」ものであり、言い換えれば「教科書を記憶するではなく、この世のものに触れて、観て、聴いて、嗅いで、なめて、考えたり感じたり想ったりして、この世を発見し、自分を、そして人を発見すること」なんだという、青二才の私の、大変身勝手な教育理想論からの言動だった。

私は確かにチャッチャ・クチャラな教師だった。だから私は父母から”アラレ先生”とニックネームをもらった。その当時こどもに人気のあったテレビマンガの”アラレちゃん”からきたものらしかった。今こうしてあの頃を語るとまるで漫画の世界のようだけど、本当に私はチャッチャ・クチャラな教師だった。しかし向かい合ったこどもたちは、私が彼らを愛した以上に私を愛してくれていた、チャッチャ・クチャラでも。それがわたしの財産かもしれないと、つくづく思う、今日この頃だ。

クッキーの怠慢・自慢・腕自慢

チキンキャセロール

材料:

チキン股肉2切れ(アメリカサイズ)

タマネギ1個半

サワークリーム 小1

キャンベルのクリームオブチキン 1個

キャンベルのクリームオブマッシュルーム1個

クラッカー(20枚位)

キャセロール鍋(コーニングウエアー)

作り方:オーブンを350゜Fにしておく

1)チキンは1ー2センチ角切りにし、タマネギは大きめのみじん切りし、これらをコーニングウエアーに入れて、電子レンジに10分位、チキンに熱が通る位にかける。(電子レンジが嫌いな場合、もしくはない場合はバターでこれらを炒める)

2)これにサワークリーム、クリームオブチキン、クリームオブマッシュルームを入れて、まぜあわせ、トップに砕いたクラッカーを載せて、それをオーブンへいれ、30分から45分(クラッカーがきつね色にこげる位が目安)。

参1:カレーの様にして、ご飯にキャセロールをかけて召し上がれ。

参2:材料にブロッコリーやホウレンソウ、ニンジンを加えてもいい。注:参2を入れる場合は、必ずレンジかゆでるかしてまぜること。

参3:これはアメリカ人にも喜ばれるよ。

健康のお話「姿勢と健康のお話 Part 1」蒔田 龍人

  健康のお話もやっと3回目になりましたが、皆さんが分かりきっている事を述べていたかもしれませんので、今回は、『姿勢』が健康と密接なつながりがあるって事を述べてみたいと思います。

これは僕の仕事柄、得意分野なので、シリーズにして時々載せてもらおうと思っております。 で、今回 Part 1。

さて、皆さんは椅子に座る時、足を組んではいませんか?

又、立っている時、左右どちらかに体重を掛けて立ってはいませんか?

こういった日ごろの癖が体の『姿勢』を曲げていく原因になるのです。

しかし、長い時間同じ姿勢ではいられなく、どうしても楽な方に傾いた『姿勢』をとってしまいがちです。

前後左右、人それぞれ、癖ってありますねぇ。 わかっていてもついつい、そうなってしまいます。

ところが、この『姿勢』が体の色々な事にとても関係しているのです。

東洋医学の世界では、体を各パーツ単位で考えず、すべて繋がって、ひとつの体を形成していると考えています。

ですから、痛いとか、悪くなっている部分だけを治すのではなく、何故そうなったのか原因を突き止め、元から正していくことを重要視しています。と言う事は、例えば胃が弱いという人は、胃を活発に働かせれば弱くはなくなる訳で、じゃぁ胃薬なんか飲まなくても、胃を活発に働かす司令さえちゃんと送ってやれば良い。となります。理屈でいえばこれで良い筈。

問題は、どうすれば司令をちゃんと送れるの?ということなのですがーっ、そこで登場するのが、『姿勢』。

背骨は24個(7個の頚椎、12個の胸椎、5個の腰椎)の骨が連なって形成されているのですが、その骨どうしの間に挟まっているのが、椎間板といわれている軟骨。

そもそも人間は、脳から発信された司令が、→背骨を通っている脊髄に伝達され、→脊髄と連動している軟骨から、至る部分に神経を通して伝えられて、→その部分が司令通り働いている、っというシステムになっているのですが、『姿勢』が悪いと曲がった背骨部分の軟骨が圧迫され、圧迫された軟骨部分からのびている神経が、大脳からの司令を100%伝達できず、その先の部分が司令どおりの十分な働きをしない為、弱っていってしまう結果となります。

自律神経(自分の意志とは関係なく動いている神経、例えば心臓や胃などに連動している神経。)が、主にそうなってしまっているのですが、症状がひどいと指先や手足、言語等にも顕れてきます。

又、軟骨の圧迫は、血液の循環(特に毛細血管)をも妨げ、血液によって運ばれる栄養や酸素等が上手く行き渡らず、体内の新陳代謝が鈍り、老化も加速させてしまう事になります。

せっかく栄養に気を使っても、それが体内で活かされていないんじゃ、勿体無いですよねぇ...。

肩こり等は手先まで流れた血液が上手く戻ってくる事ができず、汚血が脇の下のリンパ腺に溜まって起きる症状で、『姿勢』を正せば大抵解決します。(皆さんも脇の下を親指でグリグリ、と押してみてください。きっと指先までシビレがジンジンくると思います。)

それで思い出しましたが、巷で人気のマグネット製品は、血液中の鉄分を利用して血の巡りを良くさせ、コリを快癒させているのですが、訳があってその部分の血の巡りが悪いのに、無理に血を促そうとするので、血管に無理がかかる事になり、あまり良い方法とは思いません。(これは、あくまでも僕の意見ですが..。)

ゴムホースで水を撒く時、ホースからの水の出が悪くてやたらと蛇口を回し、水を沢山出そうとした所で、どこかホースに起きている原因を解決しなければ圧力がそこにかかり、ホースはしまいに破裂しちゃう。あれの理屈です。

ですから日頃、どうしても立ちっぱなし、座りっぱなしになってしまう日常の中、なるべくその都度、今、自分がどんな『姿勢』になっているか、又、正しい姿勢でいる様、意識してみるのも良いかもしれません?健康に限らず、いつも胸を張っている人は男女問わずカッコイイですもんねっ!

ところで、僕のモニター画面は机の右斜め前にあるのですが、これがまた体を常に斜め右向きにさせているので、僕の体自身、右にねじれてきている様な気がします。『姿勢』も『性格』も、ねじれないようにしなくては...。 

一口コラム:「逆転発想もまた楽し(その7)」

朝 三 暮 四

「 朝三暮四 」 (または 「 朝四暮三 」 ともいう) とは昔、漢文の時間に習った事がある四字熟語です。この熟語について改めて辞書で確認してみました。

春秋宋の狙公が、手飼の猿にトチの実を与えるのに、朝に三つ 暮に四つ与えようとしたら猿は大いに怒り、そこで朝に四つ 暮に三つにしたら猿は大いに喜んだという故事.

@目前の差別にばかり拘泥 ( こうでい ) して、同一の結果になるのを知らないこと。

AB―(略)― (岩波書店、広辞苑)

要するに 3+4 であろうが 4+3 であろうが答えは 7 であり、結果は同じなのに、目先の差別にだけとらわれる 「 馬鹿な猿 」 を笑ったことばなのです。

でも この 「 お猿さん 」、本当に 「 おバカさん 」 だったんでしょうか。もしもこの猿が 現代資本主義の世に生まれていたら、経済感覚を備えた 「 利口な猿 」 と言われるのではないでしょうか。ビジネスの世界では、売掛金の回収は1時間でも早く、1ドルでも多く、というのが原則です。全額回収さえ出来ればいつでもいい、なんて言っていたら企業は倒産です。この猿は資金回収の原則、余剰資金の運用、資金繰りの重要性など ちゃんと心得ていたからこそ 先に4個を要求したに違いありません。

算数としては、3+4も 4+3も答えは同じ 7ですが、意味するところは大きく違います。私もこの猿を見習っていたら、もう少しお金持ちになれたかもネ・・。 ――― 羅府の庄助さん ―――

編集後記

河合さん、さくらさん、蒔田さん、今週も素晴らしい記事をありがとうございました。雑貨屋は今週も充実した内容で読者のみなさんにお届けすることができました。読者のみなさんもきっと毎週楽しみに読まれていることと思います。そうですよね?

執筆者へのご感想、ご意見、ご要望等、ありましたらなんでも結構ですから、雑貨屋にお寄せください。

皆さんからのお便りをお待ちしています。

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Zakkaya Weekly No.142

雑貨屋 店主 大西良衛 ronishi@earthlink.net