Zakkaya Weekly No.133

Ryo Onishi 11/29/98  Index Homepage

雑貨屋のひとり言

あの気功の浦田先生がロスに来られました。26日の夜、高島さん宅で行われた、浦田先生歓迎パーティにワイフといっしょに参加させていただき、浦田先生を囲んでのたのしいお話と、能智さんの感動的なギターの伴奏で歌をうたい大いに盛り上がりました。浦田先生の美声もきくことができました。 とても気楽なたのしいひとときでした。高島さんありがとうございました。

土曜日はJAPAN EXPOへ行き、「YOSAKOIソーラン」を見て踊って、日曜日は浦田先生のセミナーを聞きに行きました。引越しの準備の合間にたのしい時間を過ごせた休日でした。(R.O.)

人類は進化・進歩したのだろうか

人類の歴史は 300万年とも400万年とも言われています。そして原始人から現代人まで 人類は様々な変化を遂げてきました。この変化を私達は“進化”とか“進歩”と呼び、前向きに評価するのが普通です。確かに人類は時を経るに従い、生活様式から、科学・学問・技術に至るまでの進展はめざましく、昔の夢がどんどん現実化してゆく様は“進化・進歩”そのものでしょう。

でも一つ視点を変えてみると、本当に人類は 進化または進歩しているかと疑いたくなることがあります。殆どの私達は自然の草花や木の実などにいて 食用なのか、毒入りなのか、知識として知っていても(知識としても知らない事もありますが)本能的に識別する事はまず不可能です。また毒入り食品や腐った肉などで食中毒を起こしたりもします。一方、野生動物が食中毒を起こして苦しんでいたなんて話しは およそ聞いた事がありません。(私が聞いた事がなくても、実際には野生動物にも食中毒が多く存在するのかもしれませんが)

原始人達は今の野生の動物がそうであるように この辺は本能的に嗅ぎ分ける能力が当然備わっていた筈です。その上、自身の身体に強力な武器も持たず 逃げ足も遅い人類が野生生活で生き残る為には、超能力の保持は必須であり、これらの超能力が備わっていたからこそ 無力な人類が 猛獣などの攻撃から身を守る事が出来たに違いありません。占い、予知、透視、など 今で言う超能力と称するものは昔の人は誰にでも備わっていたのだと私は信じています。

私達は今の人類を「文明人」と「未開人」という分け方をする事があります。そして「文明人」の方が「未開人」に比べ進んでおり、優秀だと勝手に決めています。でも狩猟や自然への順応能力に関しては ブッシュ族にはかないません。自然の中で寒さに耐える術については エスキモー族の方がはるかに上です。大体「文明人」が「未開人」より上であると言う発想自体が 所謂「文明人」の奢りなのではないでしょうか。

人類が 智恵と知識を授かっていろいろ出来るようになるに従って、それまで備わっていた本能としての能力が退化して行くのは 自然の摂理と言えましょう。

キリスト教始め宗教上の奇蹟と言われるものも、あながち荒唐無稽な話ばかりとは限らず、その当時では本当に奇蹟を作り出す事が出来たのだと思います。

地球上の科学や学問・技術が、これまでと同じ調子で進んで行くと、行き着く所は「地球・人類の破滅」だとよく言われます。もし終着駅が「地球・人類の破滅」だとすると、やはりこれは「進化」ではなく「退化」です。このように考えてみると、21世紀は「何が 私達の地球と人類にとって本当の進化・進歩であるか」を真剣に考え、実行する世紀になるのではないでしょうか。

河合 将介 ( skawai@wakao.com )

さくらの独り言 「祝婚歌」

友人の結婚祝に本を送る時、または”友人代表”なんていうものを頼まれる時の下手な話の最後に付け加える詩がある。それがこの吉野弘作『祝婚歌』(谷川俊太郎編祝婚歌 書肆山田発行 1981年)である。既婚読者はそれぞれに異論もあるだろうが、出典を明らかにして、こころに紹介させてもらう。

『 二人が睦まじくいるためには愚かでいるほうがいい

立派過ぎないほうがいい

立派すぎることは 長持ちとしないことだと気づいているほうがいい

完璧をめざさないほうがいい

完璧なんて不自然なことだと うそぶいているほうがいい

二人のうちどちらかが ずっこけているほうがいい

互いに避難することがあっても 避難できる資格が自分にあったかどうかあとで疑わしくなるほうがいい

正しいことを言うときは 少し控え目にするほうがいい

正しいことを言うときは 相手を傷つけやすいものだと

気づいているほうがいい

立派でありたいとか正しくありたいとかいう無理な緊張には色目を使わずゆったりゆたかに光をあびているほうがいい

健康で風に吹かれながら生きていることのなつかしさにふと胸が熱くなる そんな日があってもいい

そしてなぜ胸が熱くなるのか黙っていても二人にはわかるのであってほしい 』

(谷川俊太郎編『祝婚歌』書肆山田発行1981年、

P24〜27、吉野弘著より原文のまま引用)

たまの休日に旦那の実家へでかけた帰りの道、コーン畑や牛馬が戯れる牧場を沈む夕陽が照りだしている風景を通過しながら、私はいつもこの詩を思い浮かべる。

成田離婚なんてものが一時話題になった日本でも、義務教育在学児童生徒の50%以上の両親が離婚経験者であるという米国でも、義父母姉妹(嫁姑小姑等)との関係が離婚原因の上位を占める。向かい合う人が結ばれたり別れたりすることにはそれぞれにもっと複雑かもっと簡単な、深い河があるのだろうが、それでも当人とその家族の生活にこの『祝婚歌』の一節でもあったなら、と思うと時がある。現に私も、『愚かでいるより、立派で完璧な人でありたいし、そんな夫婦でありたいし、また互いの努力によって完璧に近い家庭を創れる。ずっこけているのはいつも旦那であり、その旦那を避難するのは私。避難できる資格はもちろんあり、正しい事を言うときはもちろん大きな声でしつこく言って聞かせ、正しいことを言われたときは反省すべし。生きていることの懐かしさを感じるなんて怠慢のようであり、そして黙っていても話しても、分かり会えないのが夫婦、、、」なんて思っていた。そんな私が義両親と会う度にこの詩を思い浮かべるようになったのは、私が大人になったのでも、増えていく結婚生活の年輪のためでもない。義両親が私との関係において、結婚したものへの祝歌ではなくて姓を変えた者への祝歌として共に歌ってくれている生活、ずっこけている生を活き会うこと、その現実があるからだ。

他人の言葉を借りれば『さくらはラッキー』なことに、娘のいない旦那の両親が彼らの実娘の様に愛してくれ、そして私も、それに心地よく甘えているの自分がある。寝起きの悪い私はモンスター、一番最後に起きだしては朝食をしている彼らのテーブル脇に横着にムスッと座る。いつものように義両親も義弟もモンスターの不機嫌さを話題にしながらいたわりつつ食事を軽くすすめ、自然な朝が始まる。昼には義両親の家庭の味を生かしたレセピーと私の家庭の味、日本料理をそれぞれに伝授する料理講習会、そして夕方はジントニックを頂きながらトランプ大会。テレビの前に座る男性陣に隠れて、台所の片づけをしながら母と互いに話す旦那の悪口、この罪なき快感。そして互いに知らない互いの国、生活、家族や自分のロマンを語る。時には涙ぐみ、時には涙がでるほどに笑いこける話に花が咲く。義母に恋をする私。私をいとおしく思う義母。恋である。義母も私も決して完璧で立派であろうとするのではなく、ずっこけている。それでいいのだと、固い日本のしきたりでガンジガラメに育てられた私に教えてくれているのは、義母である。本当は義の字はもういらないのかもしれない。

9年前、結婚式のフィナーレで退場した私に最初に駆け寄り「さくら、なんて貴方は美しく素晴らしいのでしょう」(昔私は40キロもない華奢な小娘で、孫にも衣装のごとく、ドレスがとても似合い、式中に人前で口づけをする儀式を最後まで拒んだ愛らしい娘であったのだ!)といったので、「有り難うMrs.Westmoreland」と言ったら、「Momと呼んでちょうだい、今日からは」と。義母は目に一杯の涙をためて言ったその言葉、これが最高の祝の言葉であり、そこから祝いの関係は始まった。

結婚の婚、女が姓(氏)を変える日と書く。『祝婚歌』、、、義母は私が姓を変えた日をまさしく祝ってくれ、その日から今もその詩を歌い続けてくれている、私との関係において。祝のありかたには色々あるだろうが、こんな祝のありかたは無形財産だ。

結婚の祝の時はこの詩を、人があの世に旅立つときは『時の詞』を捧げるようにしている。いつかまたこの『時の詞』をご紹介したいと思っている。『祝婚歌』、これは向かい会う様々な人と自分の関係にも、黙っていても詩(うた)えるかもしれないと思ったりする、感謝祭を旦那の家族と楽しく過ごして帰宅した、さくらの独り言。

一口コラム:「日本語って何だろう その18」

『 「説得」 と 「納得」 』

人が何かを発言する時、「何を言うのか」 が重要であるのは当然です。ところが私達が日本語を話す場合、それと同じ位、またはもっと重要なのが 「どういう言い方をするのか」 だったりします。

「私はその案には反対です」 と明確に言うより, 「私は どうもその案には 賛成しかねるのですが・・・」 などと 少々歯切れの悪い言い方をしがちであり、こちらの方が受け入れられやすい日本語と言われています。

他方、英語の世界では(と言っても私はほんの一部の世界しか知りませんが) 相手に伝えたい内容をいかに論理的に 「説得」 するかが重要であり、日本語のように 婉曲的言い回しで相手を 「納得」 させるやり方には あまり重点を置いてないようです。論理的に 「説得」 する為には曖昧な言い方より明確な表現の方が都合がいいからでしょう。

私自身も何か意見を述べる時、英語での場合は イエス、ノーも含めて比較的 明快な言い方をするくせに、まったく同じ内容なのに日本語での場合はなぜか言葉の語尾に余計な言い回しを付けたりします。(例えば 「あなたのおっしゃる事はわからない訳ではないのですが、私の考えもあながち間違いとも言えないのではないかと思いますけれども・・・・」 なんて調子で結局、何を言っているのか自分でも わからなくなってしまったりして・・・・)

尤も私の場合は英語の語彙不足から 英語で微妙な言い方が出来ない事が最大の理由なのですが、でも、 “どうもその理由だけとは必ずしも言えるとは限らない、と言っても あながち正しくないとは言い切れない側面があるような気がしない訳でもなさそうです” (?!?!?・・・・)

――― 羅府の庄助さん ―――

一口コラムの追加

向井千秋さんがスペース・シャトルから 短歌の”上の句” を地球に送り、“下の句” を募集しているという 話を耳にしました。

“上の句” は次の通りだそうです。

“宇宙では 何度も出来る 宙返り”

そこで私も 次の通り、“下の句” を付けてみました。

“宇宙では 何度も出来る 宙返り オリンピックなら金は確実”

これでは入選は無理でしょうかネ。

羅府の庄助さん ( skawai@wakao.com )

編集後記

家の中は大小の段ボール箱がいっぱいあり、引越しが近づいてきたなあという感じです。この際だから、できるだけ荷物を整理しようと、もう着なくなった服や使わなくなったものを”GOOD WILL”に寄付しました。家具の一部も、次にこの家に入居される方(日本から来られた人)に譲ることにしました。息子、娘がおいていった服やガラクタ?がたくさんあるのですが、捨てるわけにもいかず、持っていくことにしました。

http://home.earthlink.net/~ronishi/zwback.htm

Zakkaya Weekly No.133

雑貨屋店主 大西良衛 ronishi@earthlink.net