Zakkaya Weekly No.128

Ryo Onishi 10/25/98 Index Homepage

雑貨屋のひとり言

◆あのものすごく蒸し暑かった2ヶ月前から、すっかり秋らしく涼しくなった日本で一週間だけ過ごしました。朝早くからバス・電車・徒歩で会社に行きました。雨の中、傘をさして歩いたり、たくさんの人の中を歩くというのは疲れました。でも私はもっと歩かなければいけないと思いました。

土曜日の夕方、関空発のロス行きの飛行機に乗ったら、北野さんの奥さんと娘さんに会いました。偶然にも座席が隣同士だったので二度びっくりしました。(R.O.)

カラオケ 小考

英語の辞典では世界的に権威のある、イギリス・オックスフォード辞典に今年 新たに「タマゴッチ」、「オタク」、「ツボ (指圧のつぼ)」 などの単語が加えられたそうです。

「タマゴッチ」も、とうとう国際語である「英語」 としても認められた訳です。(ご承知のように 世界を駆け巡った バンダイ社のヒット・ゲームである 「たまごっち」 の名前は 「たまご+ウオッチ」 から命名されたと聞いています)

「たまごっち」 も世界に通ずる日本の文化として認知されたと言うのでしょうか。

世界に通ずる日本の文化と言えば、これに似たようなもので、「カラオケ」 をあげる事が出来ます。私は確かめていませんが、この言葉もきっとオックスフォード辞典には収録されているに違いありません。

たかがカラオケと申すなかれ、カラオケは世界に通用する日本の文化の代表です。カラオケ装置も年々進歩し、今では 画面に絵と歌詞が出るのは当たり前で、こちらに合わせて音程、スピード、エコーまで自由自在、一曲毎に採点までしてくれる念の入ったものまであります。その上インターネット・カラオケまで登場し、賑やかです。

私は カラオケ擁護派です。カラオケ文化論を述べるつもりはありませんが、カラオケが私達の身心のリフレッシュと健全化のために役立っていると信じている一人です。

まず、カラオケで大声を出すと普段溜まっているストレス解消になります。おなかの底から声を出すので内臓の活性化にも役立つ筈です。カラオケ・バーなどでは 歌っている分だけお酒の量が少なくて済みます。仲間との一体感が生まれます。――ただしカラオケにも当然楽しむ為のルールがあり、先ずマイクを独占しない事、他人の歌を批判しない事、他人に聞かせようとしない事 (どうせ素人の歌であり、誰も聞いちゃくれません)、楽しく歌う事、歌いたくない人に無理強いしない事、・・などでしょう。また最近言われている事に、職場の人間同士の場合は上司が部下を誘ってカラオケに行くのは控えた方が良いとの事です。上司と部下とが愛のデュエットでもすればそれはセクハラになり兼ねないし、デュエットでないとしても、多くの流行歌は恋愛を賛美し、正当化する応援歌みたいなものなので、うっかり職場の部下の瞳を見詰めて歌おうものなら、それだけで立派にセクハラが成立してしまうのだそうです。

最近はクラブやバー形式のカラオケだけでなく、カラオケ・ボックス方式がかなり普及しています。カラオケ=アルコールと言う図式が崩れ、家族や友人同志の団欒の場としての地位も確保されてきました。日本は今、一億総プロ歌手化(アイドル化)の時代であると同時にプロ歌手の総素人化の時代でもあり、カラオケ文化はますます質を高め (?)ながら日本の文化としての地位を確固たるものにしつつあるようです。

さあ、今日も誰か私とカラオケ ご一緒しませんか。

河合 将介 ( skawai@wakao.com )

さくらの独り言その6 "つわり”

”つわり”というタイトルをつけると『このさくらにもとうとうコウノトリが飛んできたのか、、、』とお思いになる方も少なくはないだろと、微笑みながらの独り言、、、。

 医学的に言う”つわり”とは、「子宮内に胎児が宿るという体内の異変によって、胃やその他の臓器が圧迫されたり、色々な影響を受けることから生じること」なのだそうだ。

 私の母曰く”つわり”とは、「子供が母親になる人にその自覚を与えるためにあり、そしてこどもは一人の人を女性から母親に変えていくのだ」そうだ。姉が極度のつわりで体力を消耗していた頃、母はこうして私に命の知恵を教えてくれた。

 私の恩師が”こどもの偉大さ”という講義のなかで「親は子供を教育しているだの、食わせてやっているだのと威張るが、実は、親を教育しているのは、また親を親に育てているのは、子供でもある」と述べていたが、いずれも正しいことである。

 先日、友人のお嬢さんが事故でこの世を去った。二十歳だった。母親である友人はちょうど出張先である日本のホテルで、この悲報を受け取った。事故から約10時間後のことだった。友人の留守で、一人寝入っていた父親は悲しい電話で目を覚され、それから彼がどの様に夜明けを迎えたか、想像を絶する思いがある。知らせを受けた母親とその家族が集えたのは、事故から二日が経過していた。そばにいた私たち夫婦は、夢なのか現実なのかと自問しながら、言葉を探すことの無意味さを感じ、無力な自分を自覚した。納骨までの約6日間、私はこどもが命を宿された時と同じように、命が消えるその時も、”つわり”現象を引き起こすものだと実感した。

 残された故人の姉二人とその両親は、故人が大切にしたものを尊重できる別れの時として、故人のごく親しい友人だけを集めたメモリアルタイムを持ち、故人の写真を観ながら泣いたり笑ったりと、思い出話に夜も深けた。その夜母親である友人は、昔を懐かしむあまり話がとまらない程に、日本語で私に思い出話を続けた。そしてそれから数日は、故人が働いていた所の人々に挨拶に行き、故人が日ごろ大切にしていたものが帰ってきた。それは日本語学習テープ、両親のために作っていた手芸品、そして外国人女性でありながら仕事を持ちキャリアを築き、アメリカ人の父親と自分達を愛し支えてくれている母をいかに尊敬しているか、という、母親の知らない、分からない娘の生様だった。

 何らかの立場で子供の教育に責任がある場合、私たちは「何をするか、できるか、どうするか」ということにのみ重点をおきがちで、またその視点での評価をする。しかし、こどもは両親や教師に「どう生きるか」という視点で見守って欲しいと望んでいる。今母親なる友人は、愛する娘が「どう生きたか」という事を、涙のうちに探り始めている。まるで”つわり”のような苦しみを伴いながら、、、その娘はさよならをいいながら、今、一人の女性を母親にと再び変えている。

今も言葉がみつからない。偉大な母親をまた母親にする愛はすばらしい、ただただ私はそう信じたい。 さくら

一口コラム:「日本語って何だろう?(その14)」

一応 、とりあえず・・

以前、この「一口コラム」にも書きましたが、日本語には物事を はっきり断定的に言うより、なるべくあいまいに、ぼやかして言う方が良い(正しいとは限らないけれど)日本語なのだと言う考え方があるようです。日本人のメンタリティの中に無意識に 「人と人との関係」 を重んずる気持ちが働いたりして、余計な枕ことば的修飾語が付いてしまうようです。 断定的に言わなければならない時でも、例えば先生が成績の悪い生徒に対して 「君はダメだヨ」 と言わないで、「君はダメだねえ」 なんて言い方をする事が多い筈です。 「君はダメだねえ」 という言い方は相手に同意を求めた言い方であり、「君はダメだヨ」 と決め付けるより相手のダメージが少ないからなのだそうです。

「あいまい・ぼやかし」の枕ことば的修飾語と言えば、例えば次のような表現が浮かんできます。

@「きみは 結婚しているの?」 「ええ、一応」 : この質問には “イエス” か “ノー” かの答えしかない筈なのに、「ええ、一応」 と答えるのは 「まだ半人前の人間ですが・・・・・・」 という謙遜の意味が含まれているのでしょう。

A寿司屋のカウンターで注文を聞かれて、「とりあえずビールネ!」。 ビールがでてくると、隣の仲間に 「××君はまだ来てないけど ぼつぼつ始めようか」。 そして 「まずは一献!」 となったりします。

B他人にものを頼む時、最後に必ず 「ひとつ、よろしく」 と言う人を見かけます。あまのじゃくな私など 「たったひとつでいいの?」 なんて言いそうになったりします。

C長嶋監督(読売ジャイアンツ)の口癖の 「いわば」、「いわゆる」、「ひとつの」 なんてのも、この類なのでしょうね。 ――― 羅府の庄助さん ―――

編集後記

先週ワインのコルクのことを書いたら早速、ほしい方が現れました。みなさんも雑貨屋をうまく利用してください。http://home.earthlink.net/~ronishi/zwback.htm

Zakkaya Weekly No.128

雑貨屋店主 大西良衛 ronishi@earthlink.net